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今日、10/15(水)は世界中のブロガー、ポッドキャスター、ビデオブロガーが、年に一度、同じ日に同じ話題について取り上げるBlog Action Dayです。今年のテーマは「貧困」です。
Wikipedia - 貧困
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A7%E5%9B%B0
によると、「貧困」とは「主に経済的な理由によって生活が苦しくなり、必要最低限の暮らしもおぼつかない様子をいう」とあり、また、人によりその定義が異なるとのこと。主として、気候、物価、健康・寿命などによる絶対的な基準と地域、国によらず一定の計算式によって求める相対的な基準とがあり、後者は計算式によって算定されるため、「判断者による恣意が入り込む余地は少ないものとなる。しかし、平均値との比較によって判断するため、国全体が貧しい場合には絶対的に見て相当貧困な状況にあっても、貧困でないとされる場合がある。(Wikipedia - 貧困)」とのこと。
「貧困」の定義からして様々な立場があり、そのことが「貧困」問題に取り組む人達の活動に対立や分散を生む一つの原因となっているように思います。相対的な基準を重視する立場からは、地域や国内の格差がクローズアップされ、絶対的な基準を重視する立場からは恣意的な貧困の定義が一人歩きしてしまう。複数の指標があるととらえて、多角的多面的に問題をとらえればよいのですが、往々にして両論併記は非とし、二者択一の構造に落とし込んでしまうクセのようなものがあるように思います。特に個人の枠を超えて組織、団体になるとどうしても、有限の予算、リソース、アテンションの奪い合いという側面が出てくるので。
しかし、物事には一方を改善することで、一方も良い影響を受けて改善されていく、相互に正のフィードバックを与えていくということはままあります。例えば、仕事とプライベートを対立の構図で捉える人は多いですが、そのモデルで考え続ける以上、どちらかの改善は他方の劣化を生むゼロサムゲームになります。しかし、現実には仕事を上手くこなすことで、潤沢なプライベートの時間を生み、プライベートが充実することで仕事にもよい影響があることはまた多くの方が実感するところではないでしょうか。仕事ばかり優先して家族の支援を受けられなくなったら仕事も早晩上手くいかなくなることは論理的帰結でしょう。逆もしかり。世の中で言われる「矛盾」というものは要はモデルの立て方に問題がある場合がままあるということでしょうか。
「貧困」もゼロサムゲームでモデル化する限り、有限のリソースの奪い合いになってしまいますが、モデルを切り替えることでどちらも立てることが可能なテーマだと思います。地域、国内での貧困問題、格差問題を解決することは、当該地域、国内での税収、治安、社会不安、生活レベル、およびその維持と改善にかかるコスト等を改善し、余裕を生み、地域外、国外の「貧困」問題に取り組む力を得ることができます。素直に考えて、自身が困窮している状態で外に興味が向くことは難しいわけですし。
他方、絶対的な「貧困」に目を向け、改善していくことで、国際的な政情不安、戦争、紛争、治安維持、これら、およびこれらによる破壊からの復旧にかかるコスト等を改善でき、世界が保有するリソースをより生産的な分野に割り振ることが可能になり、結果、支援にかかるコストも少なく済むようになっていくと思います。また、政情が安定するということは金融も安定し、軍備も抑えることができますから、支援対象の地域、国だけでなく、支援する側の地域、国にとってもメリットがあります。この場合も素直に考えて、戦争、紛争が勃発し、通貨の価値が乱高下して、軍備という非生産業に社会リソースが優先的に投入される状況では地域、国内の貧困問題の解決どころではなくなってしまうわけですから、地域外、国外の貧困への取り組みは真っ直ぐ地域内、国内の貧困対策につながるということになります。特に日本のように資源、食料の過半を輸入に頼っている国の場合、地域、国内外の貧困問題を切り離して考えることは難しいと思います。まさに車の両輪で、一方を改善することで、他方もまた改善していく、そういう正の循環をまわしていく必要があるのだと思います。
ゼロサムゲームって、結局奪い合いだから、対立の構えなんですよね。これって、全体のリソース、コストは有限かつ一定で変化しないという無時間モデルの発想なんだと思います。ゼロサムゲームのスキームを受け入れた瞬間に、リソースを増やしうる、コストを減らしうる方向に考えがいかなくなる。それどころか対立そのものにもコストがかかるのでコスト増になる。それはあまりに不毛ですよね。ゼロサムゲームで考えないことが、貧困問題を考える時の要点かなと、僕は今そう思っています。そもそも貧困という現象事態がゼロサムゲームで奪い合った結果の一つともいえるのだと思うので。
今日は(といっても残り1時間きりましたが^^;)世界中のブロガーが一つのテーマに関してブログを書くBlog Action Dayです。テーマは「環境」ということで、世界中でエコに関するエントリーがアップされます。
エコ(環境)に関して僕が最近思うというか感じることは大きく二つで、それは「変わったなぁ」ということと、「ちょっと心配だなぁ」ということです。「変わったなぁ」というのは世の中のエコに対する興味というか、取り扱い方、その重きを置く雰囲気、ですね。
10年ほど前はほとんど環境ってビジネス、広告、マーケティングの場面でウリになることって殆どなかったように記憶してますし、書店での書籍のスペースも少なく、周りで環境保全で盛り上げるというようなことって殆どなかったです。TVはバブル崩壊で何はともあれ経済、景気が最優先でしたし、ITやノストラダムスの大予言(古いなぁ)の方がまだマスコミでも多く語られていたぐらいの印象があります。それがここ数年でエコ、環境、地球温暖化といった言葉を聞かずに一日過ごす方が難しくなりました。CMも、ニュースの特集も、小売店のキャンペーンも、JRも、不動産もエコ、エコ、エコです。この変わりっぷりが全世界的なものなのか、日本特有のものなのかわからないですがここ十年の変化は凄い。いまや「環境?エコ?そんなもんで食えんのか?」なんて言う人は殆どいなくなりました。
「……むかしも今も、 また未来においても変わらないことがある。 そこに空気と水、 それに土などという自然があって、 人間や他の動植物、 さらには微生物にいたるまでが、 それに依存しつつ生きているということである。
自然こそ不変の価値なのである。 なぜならば、 人間は空気を吸うことなく生きることができないし、 水分をとることがなければ、 かわいて死んでしまう。 さて、 自然という 「不変のもの」 を基準に置いて、 人間のことを考えてみたい。
人間は、 ―― くり返すようだが ―― 自然によって生かされてきた。 古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。 このことは、
少しも誤っていないのである。 歴史の中の人々は、 自然をおそれ、 その力をあがめ、 自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。
その態度は、 近代や現代に入って少しゆらいだ。 ―― 人間こそ、 いちばん偉い存在だ。 という、 思いあがった考えが頭をもたげた。 二十世紀という現代は、 ある意味では、 自然へのおそれがうすくなった時代といっていい。
同時に、 人間は決しておろかではない。 思いあがるということとはおよそ逆のことも、 あわせ考えた。 つまり、 私ども人間とは自然の一部にすぎない、 というすなおな考えである。
このことは、 古代の賢者も考えたし、 また十九世紀の医学もそのように考えた。 ある意味で平凡な事実にすぎないことを、 二十世紀の科学は、 科学の事実として、 人々の前にくりひろげてみせた。
二十世紀末の人間たちは、 このことを知ることによって、 古代や中世に神をおそれたように、 再び自然をおそれるようになった。
おそらく、 自然に対しいばりかえっていた時代は、 二十一世紀に近づくにつれて、 終わっていくにちがいない。 …」
以上は、 「二十一世紀に生きる君たちへ」 と題して、 小学校6年生の教科書 『小学国語』 (大阪書籍、 1989)
歴史小説家の司馬遼太郎の言葉ですが、彼は正しくこの状況を望見していたんだなぁと思います。環境やエコに対する興味がこの調子で高まっていき、具体的な活動の力になっていけばよいと思います。
しかし、同時に不安に思うのは「あまりに変わるのが早すぎなのでは?」ということです。環境保全、持続可能性、エコ、とても良いことだと思いますし、そういう方向にシフトして行くことは必要なことだと思います。そして、地球温暖化を考えればそれほど悠長なことを言っていられないこともわかります。でも、急激な変化はやはり大きな副作用があるんじゃないかとも思います。例えエコでなくても、持続可能な産業でなくても、それで世の中に価値を生み出し、これまで生活を支えてきた産業、モノ、仕事、人達がいたし、いるわけで、急激な変化はこの人達に「もう用無しだから。というより邪魔だし、もはや悪だから消えろ」というようなメッセージを突きつけてしまうのではないかと不安になります。具体的には、割り箸を作って生計を立てていた人たちはどうなっているのか。レジ袋を作っていた人たちはどうなっているのか。セル生産方式でベルトコンベアーがなくなり、工場は必要な量の製品だけ生産してエネルギー、コストの削減に成功していますが、ベルトコンベアー式の枠組みの中で生計を立てていた中小の下請けの工場の人たちはどうなっているのか。etc…
僕はエコそのものに価値を認めると同時に、持続可能なエコを意識した世の中の仕組みへの変わり方にも持続可能性を考慮する必要があるのではないかなとも思うのです。強い薬と一緒で急激な変化は必ず強い副作用を生み出します。日本は石炭から化石燃料へのシフト、農業から高度成長期への工業、製造業へのシフト、工業、製造業から金融、ITへのシフトで同じように急激な変化を行い、それまで誉めそやし讃えてきた産業を切り捨てることをやっています。そのことの一つのわかりやすい例が炭鉱の町であった夕張市でしょう(財政破綻はその後の自治体運営にも多く責任のあるところですが)。国策が行き当たりばったりとでも言えばよいのか、あるステータスから別のステータスへの遷移が急過ぎて、ソフトランディング(軟着陸)させることが殆ど配慮されないことはとても問題だと僕は思うのです。なぜなら、「もうお前邪魔だからいらない」と言われたモノ達は必ず自分達に代わってやってくるものに対して毒を吐かずにいないと思うからです。結果、それらが新しくやってくるもの(例えばエコ)の足をコトあるごとに引っ張る事態になってしまうのだと思います。多少遠回りに思っても、これまでの価値観の元で活躍した存在には邪魔者扱いするのではなく、丁寧にソフトランディングを促しつつ、一線から退いて頂くという手続きを踏むことが大事なんじゃないかなぁと、そう思うのです。
エコが禁煙活動のようにイデオロギッシュで排他的な活動にならないように、僕自身気をつけていきたいと思います。