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春の審査以降、色々気づきがたまっているので、忘れる前にメモメモ(←もっと早く書いとけってーの)
・横面打。打ってくる相手と平行に。そのためには、相手に遠い方の手でちゃんと袈裟に切り上げとくこと。
・横面打。相手に近い方の手は防御ではなく、相手の攻撃を加速させる、加勢する、協力する感覚で。止めない。相手の打ちたい方向に加速させる。避けるのは足で。
・一教。相手と遠い側のひじを決して曲げない。かつ、自分の中心(みぞおち)前にひじを入れる。すると、自然に相手は抑えた腕の逆の腕の横スミに落ちる。そうじゃないと、反撃される。
・一教裏。転換で入った2本目の足を引くと同時に腕を落とす。その時、表と同様に先の手は方向のみ、影の手で相手の上腕部を湾曲させるように落とす。方向は相手の足が向かっている方向。
・諸手取呼吸法。表は杖の感覚でやると今の自分だと押し込む感じになる。剣の方が押し込まずにいける。
・諸手取呼吸法裏。杖の感覚でもう数センチ手先の方向に転換前に伸ばす。これは杖の手元の部分を腹の中心に入れる動作に等しい。
・四方投。杖をイメージ。目の前に杖が常にあり、真ん中を愚直にキープすると相手の腰がのびてくずれる。最後に投げるときは、しかし、剣で頚動脈を切る。
合気道で指導していただいているYさん、Kさん。
これまで、このブログでは、師や先生と呼び習わしていたのですが(本人の前ではこれまでもYさん、Kさんでした)、Yさんに「先生と思わないで欲しい。自分は同じ稽古生だと思っている」といわれて、確かに師や先生に位置づけることで遠慮やしり込み、変な気遣いや遠慮が発生することにも思いいたりました。
仕事でもない世界で、上だの下だの持ち出して遠慮してちゃ確かにアホくさい。もちろん、敬意はこれまで通りあり続けますし、TPOによっては師弟っぽく振舞ったりってなことはあると思いますが、基本、同門の兄弟子と思ってお付き合いしていこうと思いました。それがウチらしいし、格好いいと思うから。そして、自分も、弟弟子に対して常にフラットな関係をキープすることを誓いたいと思います。
まぁ、元々ウチの会はフラットな雰囲気なんですけどね^^
他の道場とかすごいらしいですから。段や級の順に並んだりとかさ。
まぁ、厳格な師弟関係もそれはそれで素晴らしいもの、得るものはもちろんあると思いますから、あうあわないの話なんですけどね。
ただ、フラットな関係の方が依存できないので、依存傾向のある人にとってはある種厳しいのは確か。
でも、フラットな関係の方が断然楽しいよ。
土曜の朝、雨がそぼ降る中、チャリを爆走して道場にお稽古に行く。
家を出た時間が自転車に乗らなければ間に合わない時間だが、あいにく雨合羽なんて貴族のおめしものは持っていないので、ただただ雨風の中を駆け抜けるばかりなり。アホです。いい歳して何やってんでしょうか、この人は。
途中、寒風にかじかんだ両手をみながら「もう帰ろう、帰ろうよ」と静かなセルフつっこみが入ってましたが、つっこみながら気づいたら道場についてました。習慣っておそろしいですね?
案の定、こんななか自転車でくるアホは僕だけでした。そういえば、高校生ぐらいの頃、雨に濡れながら自転車で疾走する風情は「かっちょいいのでは?」と思いなしていたことをふと思い出しました。水も滴るいい男ってやつですか。高校生の頃の僕はこの言葉の力点が本来、「いい男」にかかっているのであり、「水も滴る」にはかかっていないことに気づいてなかったんですねー。ほほえましいやら痛いやら。
閑話休題。
今日の稽古は、呼吸法から入って、正面打入り身投げ、横面打ち四方投げ、正面打ち一教、後ろ両手取り三教、座技呼吸法という構成(何か後一つあったような気がしてしかたないけど、忘れちゃいました)。最近の稽古では、個人的に「手は忘れよう、ともかく足を意識!」と思ってやっている。まず、手を意識するとどうしても肩口からの力で相手をひっぱる、押し倒すような動きになりがちであること。これにより、相手が抵抗してしまうこと。足は視界から見えないところにあるので、一度おかしな癖がつくと修正しづらいこと。そして、何より足で動きを作るのが一番楽に技がかかるということ。こうした理由があるので、むしろ「俺には手がない!」ぐらいの意識でお稽古する。
でも、ほんと人間、目に見える範囲の機能であり、器用で高機能であるところの手を使おう使おうとするんですよね。意識することで逆にいかに日々手に頼って生きているか、手先でなんとかしようとして生きているかがよくわかる。そして、人体はある一部分に力を入れていると他には入らない状態になりますので、手や肩に力が入っているということは、イコール足腰に力が入ってない、俗にいう「腰が入ってない」状態になる。少なくとも日本武道において、腰が入っていない、抜けているという状態は致命的な状態で、実際技は入らないし、しんどい。見た目にも腰がひけててかっこ悪いの三重苦。合気道に限らず、和の武道には、力や体の小さいものが大きなものを制していくという傾向がありますが、これは武道が足腰の力を利用する技法体系になっているからです。足腰の力というのは、日々、重い重い上半身をささえて歩行、走行し続けているだけあって、相当に強いのです。女性が大柄な男性(マッチョな外国人男性などであっても)制していける物理的な秘密はこの辺りにたぶんある。
合気道は、元は剣の動きからほとんどの技ができているらしいので、手はむしろ剣を意識してやってみる。昔、不真面目ながらも剣道をやっておいてよかったなぁーと思うしだい。剣を構えるとき、手は体の正中にある。人中線にそってまっすぐ構える。このとき、肘はみぞおちの前にきて、脇は絞られている。この状態が実は「隙がない」という状態の一つ。脇を絞って身体の中心に手をおいた状態で相手の間合いに踏み込むと、かなりの威圧感があり、相手は思わず手をとってしまいます。合気道は自分から攻撃をしかけることは確かにないのですが、実はこのように相手が手をださざるを得なくする「つくり」という技法があります。合気道もやはり武道ですから、愛と和合といいつつも「甘くはない」んですね、実際。師はよく子供向けには「合気道は自分を殺そうとしてくる相手とも仲良くするもの」と仰いますが、大人向には「合気道は自分を殺そうとしてくる相手にいつでも殺せるよ、でも殺さないよというメッセージを伝えて相手のプライドをぶっ壊すもの」と仰います。かっこいい(笑
手を剣を持っているものと意識すると、自然、つかむとか引き倒すとかにはならない。それは引き出すとか、斬るという動きになる。そして、手が中心からずれるということは、剣があさっての方向を向くということなので、「ありえない」わけです。だから、手が自分の中心にあるというのは本当に大事なことで、実際、これを意識するだけで技がかかりやすくなる(気がする)。特に四方投げは相手の腕を剣とみなして抜刀、頚動脈を斬る動きになるので、中心を意識することが非常に大事。
手が中心にあると、んじゃ、左右や上下の動きはどうやって作るんだということになる。そこで出てくるのが足腰、膝なんだろうなと。実際、師も「上下、左右の動きは足で作ってくださいね。手先でやらないこと」とよく仰います。でも、最初に書いたように、人間はどうしても目に見えて使いやすい手を重用しちゃうんですよね。稽古のプロセスは、このでしゃばりな手をちょっと黙らせて、日陰者ではあるが実力者であるところの足腰を意識して活用していくプロセスということになるのかなと、そう今の自分は理解しています。つまり身体全体で仕事をするということで、局所的な使いやすい箇所だけを使う偏った身体運用の癖を直していくということになるかと。「なんかこれって組織論?」とかやりながら感じることもたびたびだったりして。実際、年末年始のアツいプロジェクトのマネジメントでチーム全体のスループットに意識をフォーカスできたのは、こうした気づきの効能が大きかったなぁと思うしだい。
手は中心に、足腰を入れて動きをつくる。身体全体で仕事をする。これ重要ってことで。
以下は、自分用備忘。箇条書きで。
- 呼吸法では、腕を自分の中心に入れた分だけ前に出る。そうしないと、肩と相手の相対距離がつまって、相手を押し込むことになる。こうなると力 vs 力になるため、技はかからない。
- 四方投げは流れを止めないでやること。動きが途中で止まるとその状態から相手の腕を抜刀するのはかなりしんどい
- 腕と足の動きは同期させること。同期していないということは、腕だけでやろうとしていることが大半。
- 技は一呼吸で息を吐きながら。そうすれば、肩に力が入りづらくなる。
- 一教で崩すときに、相手の前スミに落とすこと。相手の方に押し込まないこと。押し込んでも崩せるが、その場合、相手の足が浮くので、そのまま相手の蹴りがくる可能性がある
- 後ろ両手取りはゆっくりが基本。背中を回る相手の動きを意識して、相手をまつこと。自分で無理やり引き出そうとすると手がきれる
- 突きの入り身投げの転身の方法は、怖いが一歩踏み込むこと。踏み込めば相手の攻撃力は減殺し、こちらは相手を楽に伸ばしていける。
- 座技呼吸法は手の形を相手にあわせて、その状態で手は無視して腹で攻める。これは相変わらず物理的な理屈に落とし込めない。興味深い。
日曜の朝は合気道の稽古。
審査後は参加者がぐっと減るのが常なのだけど、今回は盛況。特に子供の数が半端じゃない。
10人以上の子供達が道場をところせましと走り回っている。どんだけ元気なんだ。
「若さってすごいのね」としみじみ感じるひとコマ。
稽古の内容は、基本技を中心とした構成。呼吸法、スミ落としから入って、一教、入り身投げ、四方投げと続く。
四方投げは逆半身の片手取りからの展開。
これは、鏡状態に向かい合った相手に自分の片手を取られて押さえられた状態から仕掛ける四方投げ。
今回は相手と自分の指先の方向に特に意識を集中してやってみる。
以下は、そのときに感じた気付き。備忘もかねて記録しておく。
合気道では力は「指先の方向に出る」とよく言われる。手の指先だけじゃなく、実は足の指先、ひじ、ひざ、頭頂部からも出るらしいのだけど、要は先端や関節から力は出るということ。合気道の技はだいたいにおいて、相手といったん一体化して、それから技がかけ終わった段階で分離する。ので、まず一体化する必要があって、この際に重要なのが相手の力の出る方向を意識することらしい。先生はよく「相手が行きたい方向に行かせてあげる」という表現をされる。四方投げの場合、「相手の腕を剣とみなして抜刀する意識で」ともよく仰る。
片手取りしてくる相手の力は指先の方向に向かっている、だから、まず指先の方向に移動してあげて相手の体勢を崩す。面白いのだけど、人体は自分の行動を制限する、規制する力に対しては優位に反応できるけれど、自分の行動を加速するような力に対してはあまり上手く対処できない。自分を攻撃してくるものの想定アクションリストの中に自分の行きたい方向に「さらに行かせる」アクションが存在することを勘定には入れてないから。本能レベルで。
体勢を崩した後、さらに相手の指先の方向に相手の腕を引き出す。これは相手の腕が鞘に入った刀身だとすると、それを引き出すということになり、指先の方向に引き出すということは剣(相手の腕)を抜くということだからこれまた相手(剣・腕)にとって自然な生理であるので、力はほとんどいらず、楽に抜ける。方向さえ間違えなければ(笑
今の僕のレベルでは10回に1回あるかどうかだけど、確かに相手の指先の方向、行きたい方向に添えた時は楽に抜けるということは実感してる。これを相手の行きたい方向を無視して、自分勝手に抜こうとすると鞘の形を無視して剣を抜くのと同じことで、大変苦労するし、力もいるし、何より相手も怪我する。
上手く抜けると相手は自分の肩より前に出ることもポイント。
そして、抜くと、相手の腕はまさに剣と同様、または杖と同様に直線になる。関節の緩みがすべて延びて、指先とその逆の方向(肩口)への力にのみ反応する一種の直線、棒になる。この過程は、つまり、相手の行きたい方向に進み続けることで、自分の力はほとんど使わずに相手の自由を奪う(棒状にもっていって、直線方向の力にしか反応しなくなる)プロセスということになる。相手は自分が行きたい方向にいっているだけなのに自由を奪われて、最後の最後は自分の行きたい方向も制限される(指先の方向にのみ行きたい状態になってしまう)。ここまで追い詰めた状態でさらに指先の方向に伸ばしてあげると、相手はその伸ばしに生理上全力で協力せざるを得ないから技がかかってしまうと。
なるほどー。ほんと、武道って「理性」でやるものなんだなー。面白い。
先週の日曜日は午後から合気道の秋の審査。
今回は審査を受けないのだけど、「受け」をとるのでいそいそと出かける。13時には道場について5級を受けるKさん、4級を受けるFさんと稽古。二人の「受け」をとるので本番にあわせてお互いの体感、呼吸をあわせる。たっぷり一時間以上連続で受けまくってヘロヘロになった(笑
体力には『自信をもって自信がない』ので「本番で気を失ったりしたらどうしよ~。洒落にならん」と不安になったけれども深呼吸と開き直り(「ぶっ倒れたら倒れたでネタになるし、それで相手が審査に落ちることはない」とかなんとか考えて)なんとかのりきる。(よかったよー、ほんとに)。
「受け」が不安になると「取り」にも不安が感染してしまう(逆も真)ので大変まずい。そうでなくても「取り」は審査で高い緊張、興奮状態にあるから、「受け」としてはともかくリラックスして、ゆっくり深く呼吸し、相手の緊張に抗して自分のリラックスを感染させていくようにしないとまずい。緊張やリラックスは感染するから。
合気道(または身体の接触を伴う武道やスポーツ)を経験している人は空間において空間にいる各自のリラックスの程度というのが相互参照的であり、互いに影響を与えあっていることはスンナリ理解できるんじゃないかと思う。難しいことでは全然なくて、怒鳴ってる人と同じ部屋にいると自然と身体が強張るのと同じこと。合気道の場合はさらに身体が接触しているのでよりダイレクトに互いの緊張・リラックスが感染する。同期するといってもいいかもしれない。
二人の「受け」を取りながらわかってきたのは、「取り」の緊張は想像以上に凄まじく、バトルモードになった「取り」に相対するのは恐怖すら感じる状況だということ。自分も審査で「取り」の時はきっとこんな感じなんだろうなぁ。「受け」はこの緊張、攻撃の意思をダイレクトに感じながら飲まれないように応接する必要があり、それは決して簡単なことじゃないこともよっくわかった(これまで僕の「受け」を取ってくださった兄弟子の皆さんに多謝)。審査で「受け」を取るととても勉強になるなと思ったしだい。
これは最近、呼吸法の稽古でも感じはじめたことなのだけど、うまく技が『入った』と感じる時は「受け」、「取り」の体感が一致するように感じる。呼吸や脈拍のリズムが同調して、相手と一体になるというか。感覚的には何処までが自分の身体で何処からが相手の身体なのかあやふやになって、相手と自分の二人が相対しているというより、相手と自分からなる一個体がそこに生まれたような感じ。相手の体感を自分の体感として感じるというのかな。自転車に乗っている時をイメージしてもらうとわかりやすいかも。自転車に乗ってるときはここまでが自分で、ここから先が自転車とか考えないで、自分と自転車を一個体とした存在として意識して操作しているし、自転車が感じる刺激を自分の刺激として感じていると思う。これを、自転車と自分というように二個体で考えて、自分の右足が右側の自転車のペダルを押し下げつつ、左側の自転車のペダルが押しあがるのを左足が受け、同時に右手のひじをまげて、ハンドルを右側にきって・・・とか考えてたらとても自転車にはスムーズに乗れない。自転車と人体とのインタフェースを意識せずに同一化して認識できているから僕達は自転車に上手く乗れる。服とか靴にしたって同じこと。普段、服とか靴とか身に着けているものも含めて自分と認識しているし、わざわざ個別化して意識するメリットは生活の中でほとんどない(服を脱ぐとか靴を脱ぐとかの状況以外では)。自転車に乗りなれないころは、身体はガチガチに緊張して、自転車と自分が一体になる感覚なんてとても持てないものだけど、自転車に習熟するにつれ、僕達は自転車と一体化してこれを当たり前に操作できるようになる。
合気道の場合も、上手く技をかけるというのは自転車に上手く乗るのと同じなんだと思う。最初はどうしても相手と自分の領域がインタフェースを通じてはっきり別れていて、インタフェースを経由していかに相手を操作するか、またはその操作に抗するかという考え方になるのだけど、そうではなくて、いかにリラックスして同調して、相手と一体になるか。自分も相手も消えて、自分と相手からなる一個体になるかということがポイントなんだろうと現在の僕は理解している(理解することと出来る出来ないには千里の隔たりがあるけどね)。Y先生は「相手の手、肩まで自分の腕だと思って、または、自分の肩までが相手のものになってしまったと思ってやりなさい」とよく言われるのだけど、たぶんこういうことを言っているのだろうなと思う。
審査であれ、何であれだから緊張状態というのは、相手との一体化を阻害するものであるので(自転車の扱いに緊張しながら乗っている人は自転車に上手く乗れていないのは自明)、技の劣化をもたらす。ので、「受け」としては自分がリラックスすることで「取り」をリラックスに導いて、一体化を促進できるのが理想ということ。
そんなことを「受け」ながら考えてやってみた。とはいえ、リラックスといっても自分勝手にリラックスしていっても相手はなかなか同調できないので、まず相手の興奮状態に同調して、それからリラックスに持っていくという迂回を考える。が、これが難しい。「取り」の緊張は凄いので、同調すると飲まれそうになる。というか飲まれた(汗。呼吸を合わせながら、少しずつゆっくりと深く呼吸をしていく。なんとか審査の後半には「受け」「取り」ともに落ち着いた動きができるようになっていったのを感じたので一安心。こうなってくると「受け」ていても気持ちよく、たぶん「取り」も多少は気持ちよかったのではないかなと勝手に期待(笑
一般に、上級者になればなるほど「技はかかりにくくなり、崩れない」と思いがちだと思うのですが、先ほどの自転車のメタファでわかるように実は逆。素人の緊張して、ガチガチになっている状態が一番、技がかかりにくい。Y先生は「素人さんと子供に技がかかるようになったら一人前」とよく仰います。これは本当です。だから、上級者が「受け」を取るほど実はきれいに技がかかって飛んでいきます(笑 もちろん、上級者の方は同調の外し方もわかっているのでその気になれば全く技を無効にするということもできるのですが。
結果的に「「受け」も良かったよ」と兄弟子に褒めてもらえたし、なにより「取り」を取ったお二人とも無事合格だったのでとても嬉しかった。他にも審査を受けた人は皆無事に合格したのでなにより。皆さん、合格おめでとうございました!!
先日、合気道のお稽古の帰りに先生、先輩の皆さんとお酒を飲む。
(稽古あがりのこの酒がサイコーに上手いんだなこれがっ!!)
その場で何だかんだと話しているうちに、ふと仕事の話になり、
僕とフリーランスでコピーライターをしているKさん二人が
「やっぱりクリエイティブ系の仕事って変態じゃないとできないよね。ドM、もう救いようのないドMだよ」
みたいな話で盛り上がっていると、先生のYさん(Yさんは先生と呼ばれるのは好きじゃないんだけど、ブログの上では先生を使わせてください^^;)が、
「いや、それはね、みーんな変態だよ。どんな業界、業種の仕事でもね、その仕事やれてる人間ってのは絶対にどこか変だよ(←意訳)」
ということを仰ってはっとしたのでした。
先生は株屋さんをやっている金融マンなのですが、株屋さんもまた株屋さんなりの変態要素があると断言しておられました。
うーむ、なるほど。
先生のこのコメントではたと膝を打ったのは次の2点に気づかされたから。
1. 自分達の業界、業種、仕事だけが特別なんじゃないやい
2. 業種によって求められる素養、素質は異なり、苦労する点は異なる。強弱ではなくベクトルが違う
先生には以前にも
「社会人で忙しくない人なんていないよ。忙しいのは稽古ができない理由にはならない。稽古だけじゃないけどね(←これまた意訳)」
という言葉でリリース前で油断すると【忙し自慢】に陥りかねない状態の僕のココロにズキュューーーン((C)荒木飛呂彦)とくるお言葉を発せられており、先生との会話は僕にとってスリリングで気づきの多いエキサイティングな体験になっています。
しかして、その時に自分の心性の程度の低さにホトホトあきれて「自分が特別だと思うな。自分が特別だと思うな。自分が特別だと思うな・・・」と念仏のようにすりこんでいたはずですのに、またもや【クリエイティブ業界の特別視】がにょろと出ちゃうとは。まぁ、自分を特別視しちゃうのは人間の業みたいなもんだと思うから完全には消せないし、消すべきでもないとも思うけれど。
心の癖みたいなものって人間にはあるものですねー。これも合気道の効果なのか、最近自分の心の動きとか思考パターンが自分で引いて見れるというか、読める感じがするときが増えてきました。ので、自分の程度の低いところも見えちゃってイヤンな気分になること度々です。一周して楽しいけど。
仕事してる人はみんな変態の話に戻しますと(←すげー話だな)、帰宅後、カミサンにも聞いてみたらウン×2と共感してくれましたね。カミサンは病院に勤めているんですが、やはり業界特有の苦痛があり、それに耐えられる素質というのは他の業種で求められる素質とは違うから、「まぁ、変態だわね」と言ってました。
医療系は品質の低下=患者さんの死なので、ルールも多く、仕事の内容にルーチンワークも多いわけですが、ざっとあげるだけでも
- 毎日決まった時間に決まった作業を決まった手順でミスなくこなす
- 急患が入ってもペースの崩れを最小限に保つ
- 人が亡くなることを目の前で沢山見ることに耐えられる
などなどSEとはまったく違う困難と素質が必要とされるですね。
とくに最後のが凄い。SEはまぁ、普通はね、どんなに大変でも【人は目の前で死なないから】。
「もう今日、仕事でこんな嫌なことあってさー」
なーんて、僕がダレてる日にカミサンは死を目撃している時もあったりするわけで、考えてみたら凄いことだ。
まぁ、その代わり、カミサンは休みや時間がきっちり管理、提供されていて、不規則極まりないSEの働きを見るに「絶対無理、ありえない」と言っているのですが^^;
人によって苦痛に感じること、我慢できることの程度が異なるのは、色んな仕事をそれぞれの変態性のタイプにおいて分担するために注意深く設計されたシステムなのかもね(笑
最後に脈絡もなく、もう一個、先生のステキコメントを挙げてしめます。
「ストレスのない仕事なんて仕事じゃないよ」
もう言葉もありませんm(_ _)m