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8/29(土)は午後から東京アウトプット勉強会のファシリ会(?)に参加。
(ファシリってパシリみたいだね。響きが。どうでもいいけど)
生粋のファシリテーターの福田君、ニコライさん、サ★ミーさんと相席させて頂いて、あきらかにファシリテーター向きではないわたくしは楽しく3人のお話を聞きながら昼間からお酒を堪能。ヨーグルトマッコリがうまい!もとい、3人の話が面白い!とりあえず、勉強量、読書量が半端ではないし、相手の話を聞いてからのレスポンススピードも速いし、記録をマメにとりまくってるし、常に自分の知らない新しい知見がないか探っている知に対する貪欲さのようなものを感じてレベルが違うなぁと思った。まず人として(笑
植物系(草食系ですらない)の自分にはないエネルギーを感じて、ちょっと光合成をサボりそうになるぐらいの元気とやる気をもらいました(笑
また、やりましょう♪>お三方
個人的には
- 手帳持つのは基本(とは誰も言ってないが自分以外のみんな持っていらした)
- 手帳には心に留めた言葉や出来事のスクラップなどはりつけて見直す
- 天井のない目標(だったけかな)という概念
- 河童には捕獲許可証が必要(笑
お三方と別れた後、その足で東京アートビートなるサイトでたまたま見つけた『中山万里写真展 2009 ~Message~』に向かう。ファシリ会は四ツ谷でやっていたのだけど、写真展は四ツ谷三丁目。しかも、住宅街のど真ん中の会場とのことで、れいによって迷う。というか実はファシリ会の会場に向かうときも四ツ谷で迷ってた。んで、なぜか迷っていると、人に道を聞かれる。迷っているくせに自信を持って歩いているからだろうか。自信といっても「すべての道はつながっているから大丈夫」レベルなのだが・・・。一日に二度も迷っている最中に人に道を聞かれるとは・・・四ツ谷恐るべし。
写真展はアーティストの中山女史が既に乳がんを原発とするがんで再発し、亡くなられていることと、空の写真であるということしか知らなかったのだけど、昔から空の写真が好きで好きで、かつ、8/30日までの開催であり、かつ、ファシリ会が四ツ谷であったので、なんとなくご縁を感じて行ってみることに。
写真はすばらしいものでした。「(八百万かどうかはともかく)神はいるな。やっぱ」と感じるような神々しい光景をみて、感動。しかし、それ以上に中山女史の言葉が深く染み入りました。
なんというかチープな感想しか浮かんでこないので、写真展の詳細は以下の(人様、しかも他人様の)良エントリーにお任せします(汗
肉体があることの幸せ|◆みさきのゑ「HAPPYになるブログ』占いは幸せになるためのツール
http://ameblo.jp/misakinoe/entry-10328591487.html
いくつか、心にとまった中山女史の言葉。
- あなたが神ならば 神はなにをお望みか?
- 「癒す」ということは 最終的に 許すことなのかもしれない・・・
- 10のうちの9ができても 1ができない自分を責め続けてきた・・・9できる自分を賛美することはしてこなかったように思います。なんとむごいことをしてきてしまっったのでしょう。ごめんね。今まで本当にありがとう。本当にありがとう。生きていてくれてありがとう。
最後が特に効いた・・・。「向上心」なるものの是非について昨今あれこれ思うことがよくあって、そのせいもあってより効いた。ほんとだよ、なんてむごいことしてるんだと。自分を大切にするということや、自分に感謝するということを考えたときに、果たして「向上心」というものは善きものなのかどうか。自分がなんとなく感じているには、プロセスに注目した「向上心」は自分を大切にする「向上心」で、結果に注目した「向上心」は自分を損なう「向上心」なのかなぁと。
合気道の稽古でよく思うのだけど、プロセスに注目して動いていると、それ自体が楽しくてまったく努力している感覚がない。傍からみると大変に熱心に稽古している風に見えても、本人は楽しくしょうがなくてやってて、むしろ「こんなに稽古ばっかりしていていいのだろうか?」と思うぐらいだったりする。結果としてできていないことが山ほどあっても、それがあることが、それを少しずつでもできるようにしていって、その先にまたできないことが無限に広がっている確信があることが、とても楽しく感じてしまう。プロセスに着目していると、成長そのものが楽しいので、ゴールがいらなくなる。というより、定義上ゴールがない。しかし、これが結果に注目していると、あらゆる活動は努力になってしまうので、つらくなってしまうし、できない自分を責めてしまいがちになるのかなぁと。そして、おうおうにしてつらい思いをして何かを成した人は、それを認めて欲しくなってしまって不自然な行動をとっちゃうんじゃないだろうか。自慢したり、努力してない人を見下したり、もっと自分を酷使して駆り立てたり・・・。つらい思いをして禁煙に成功した人が喫煙者を蛇蝎のように嫌うみたいに。
合気道のYさんが先日お酒の席でいった言葉がずっと頭の中にあって離れない。「自分は色んな社会的成功をおさめた、人もうらやむような人生を送った人たちの死を見てきた。でも、みんな、ほとんどみんなが後悔して死んでいった。こっちからしてみれば、あんたはアレもやった、コレも成し遂げた、すばらしい仕事を遺した・・・そんな人達がみんな後悔して亡くなっていく。自分が本当にしたいことに目を向けることをずっとしてこなかったからかもしれない。きっと自分も後悔する。それはほぼ避けられないと思う。でも、何かひとつこれをやったってものは持って死にたい。その為には、常に自分に正直にあることだと思う」
中山女史はそれは「写真」だと話していた。自分はなんだろうか。良い「向上心」にドライブされる何か・・・。
そんなことをしんみりと考えながら帰路についた四谷三丁目駅。
「そんなにまっちょりーなだったらさぁ、先に行ってればよかったのにぃ~」(後ろから携帯持った女の子が自分を追い越しながら話してた)
まっちょりーなって(笑
やっぱ、四ツ谷はすげぇ。
春の審査以降、色々気づきがたまっているので、忘れる前にメモメモ(←もっと早く書いとけってーの)
・横面打。打ってくる相手と平行に。そのためには、相手に遠い方の手でちゃんと袈裟に切り上げとくこと。
・横面打。相手に近い方の手は防御ではなく、相手の攻撃を加速させる、加勢する、協力する感覚で。止めない。相手の打ちたい方向に加速させる。避けるのは足で。
・一教。相手と遠い側のひじを決して曲げない。かつ、自分の中心(みぞおち)前にひじを入れる。すると、自然に相手は抑えた腕の逆の腕の横スミに落ちる。そうじゃないと、反撃される。
・一教裏。転換で入った2本目の足を引くと同時に腕を落とす。その時、表と同様に先の手は方向のみ、影の手で相手の上腕部を湾曲させるように落とす。方向は相手の足が向かっている方向。
・諸手取呼吸法。表は杖の感覚でやると今の自分だと押し込む感じになる。剣の方が押し込まずにいける。
・諸手取呼吸法裏。杖の感覚でもう数センチ手先の方向に転換前に伸ばす。これは杖の手元の部分を腹の中心に入れる動作に等しい。
・四方投。杖をイメージ。目の前に杖が常にあり、真ん中を愚直にキープすると相手の腰がのびてくずれる。最後に投げるときは、しかし、剣で頚動脈を切る。
1945年8月6日 8時15分。広島に原爆が投下されました。
黙祷をささげます。
「お前の仕事がなんぼのもんじゃ」 by カミサン
久しぶりにメガショックを受けたフレーズ。
ビジネス書や情報系専門書、生産性関連の書籍、環境・社会貢献関連の書籍、etc・・・と昔以上に読書量があがっている昨今なのだけど、この手の本を読み、自己研鑽に努める構えというのは、ともすると、「そうではない人達」の否定に落ち込むピットフォールがある。もちろん、そうならない人も沢山いる。自分が残念な人間なのでそうなるだけだ。ただ、構造としてそうなりやすいということ、リスクが高いということは言えるかなと思う。自己研鑽、向上心というのは、簡単にいうと「こんなことではダメだ!」に駆動されて動く、ネガティブエナジーエンジンなわけで、そうなると自然「こんなことになっていない人、モノ、制度、社会、etc・・」が気になってきて、ダメだダメだと否定に走っちゃうわけですな。気づけば口癖は「○○なんてありえない。ダメだね」。○○には自分の好きな言葉を入れてみよう(TV、雑誌、マスコミ、広告、タバコ、怠惰、マクドナルド、石油、非効率、etc・・・)。
向上心というのは、自己のある部分を否定し、改善し、向上を目指すのが基本的な構えだけど、これも過ぎると結局頑迷な他者否定になってしまう。自己のある部分を否定するということは、その部分を持っている他者を否定することに通じる。だから、みんな自分に似た人を嫌うのだし、タバコを辞めた人ほど喫煙者に非寛容になりがちということになるわけだ。
でも、古来より他者を否定している者に、他者とコラボレーションして善き事を世の中に積み増しできる奴はいないわけで、その意味で向上心というのは非常に扱いが難しいものなのかもしれない。なかなか「いろいろあって、それでいい」を実践で守るのは難しい。これができていれば向上心は特に問題を引き起こさないのだろうけど。
とりあえず、カミサンに云われてショックだったのは、自分は絶対に職に貴賎があるとは考えていないし、そういう人間は最悪だと思っていたのに、自分の仕事のあり方とかを追求しているウチに気づいたら「貴賎あり」な発想に陥っていたこと、【そこに気がついていなかったこと】。
エリート思想のお父さんが、思春期の子供に「お父さんは社会的に立派な人しかどうせ認めないんだ。お父さんにはわからないんだ!」みたいに云われたような複雑な気分でございます。あーやだやだ、そんな頑固野郎になっていたとは・・・やれやれ。猛省でござります。
アンドリュー・ハントのリファクタリング・ウェットウェアを読んでいます。
(ちなみに、彼が書いていた古典リスト(「週刊東洋経済の古典リスト」)にソフトウェア開発やプロジェクトマネジメント系の古典、名著がなかったので、ご案内したい気持ちでいっぱいになりました(笑)。こんど彼が遊びにきたら薦めたろ)
さて、この本の中に紹介されているモーニング・ページという技法に興味を惹かれて、最近毎朝行っています。さて、モーニング・ページとは?以下、引用。
- モーニングページは朝一番に書くこと。お茶やコーヒーを飲むより前に、交通情報を聞くより前に、シャワーを浴びるより前に、子供に身支度をさせて学校へ送り出すより前に、イヌを散歩に連れていくより前に。
- 少なくとも3ページは書くこと。しかも手書きで。タイプライターやコンピュータは御法度です。
- 自分の書いた内容をチェックしたり直したりしないこと。すばらしい考えであろうが陳腐なアイディアだろうが関係なく、ただ書き出します。
- 間に休みの日を設けてはなりません
これだけです。敬愛するアンドリュー・ハントが達人になるためには直観を鍛えることが必要であり、そのためには脳のRモードとやらを活性化させることが必要であり(よく言われる右脳系のことだととりあえず理解してください)、そのために、このモーニング・ページをとりあえず2週間は毎日やれと仰るからには、そりゃぁ、やりますよ。
よく、「誰が言ったかではない何を言ったのかを重視せよ」みたいなわかったようなことを言う人がいますが、他の人はいざしらず、自分はそんなこと無理です。自分は「誰が言ったことか。どんなシチュエーションで発言されたことなのか」を重視する。コンテキストを離れた言葉なんて信用しないざます(笑。それはもう、前提条件が省かれた科学的定理と一緒で信用がおけない。
さて、モーニング・ページですが、3ページっていうのが実際は書く先の紙のサイズによってもちがうだろーって思うんですが、とりあえず、自分はB5のノートを使っているので、3ページはえらいこっちゃな気がするので、1ページにしちゃってます。それでも、かなりの分量で、正直書くことなんかないわーって思うんですが、「書くことないわー」ってことも書いていいらしいので、そんなこともクダクダ書いているうちに、不思議なもので色んなことが頭に浮かんできてかけるものなんですね、これが。書きたいものがあって書くのではなくて、書くことで書きたいことを事後的に知るという時間の順逆が転倒する感じを味わうのがとりあえず面白いです。アンドリュー・ハントがいう2週間継続した暁に何か感じるのかわからないけど、とりあえず、瞑想しているときと感覚は似ている。起き抜けに書きまくるのは一種の自動書記モードのようにも思うので、確かに瞑想に感覚は近くなるのかもしれない。あと、ブログと違って、誰にも公開しない内容ってのがいいですね。見直しだの、書き直しだのまったくなく、赴くままミミズがのたくったような字で書きなぐれるのは結構快感。
おきぬけなんで、これまでのところ、妙に夢の話が多い。夢を覚えているので、自然に記録する感じになっているわけですけども、これも後々夢分析なんぞやってみたら面白いかもしれない。最近、若干悪夢が多い気がするのが気になりますが。
作りました。
Shinchi's Programing Works for
http://blog.livedoor.jp/shinchi_pg/
ただ作りたいということが先行していて、何のために作るのか自分でも良くわかってないので(汗、
Works for の後は現在未定義^^;
なんでlivedoorかってーと、livedoorはHTMLが使えるからだよ。
はてなと迷ったけど、どーも昔からはてなのUIは好きになれないので。
見た目が結婚してる風に見えないせいもあってか、よく女性方から「結婚されてるんですか?」と聞かれる。
で、「はい、してますよ」と答えると「えー、意外!結婚して何年になるんですか?」と聞かれる。
で、「4年になりますね」と答えると「結婚早いですねー。(ここで少し間があり)どうして結婚しようと思ったんですか?決め手は?」と聞かれる。
ここまでのやりとりは、だいたいいつも変わらなくて「たらちねの」といわれれば「母」みたいな、枕詞みたいなものなのだろうと最近は思ってる。
で、この先の回答で、いつも、「いや、天気が良かったのでプロポーズした」と答えるのだけど、ご納得いただけないことが多いので(笑、この場であらためて言っておこうかなと。ある秋の日(10月20日)、とても気持ちのいい秋晴れの日で天気もよく、風も心地よかったので「あぁ、なんか結婚しよう」と思ってプロポーズしました。これ、ほんと。今日以外にないなと、ピーンときたんだね、これが。
もちろん、その前から、ずっと結婚すること自体は考えてましたよ。「結婚しようと思った理由」の方が聞きたいかもですね。もしかしたら。んと・・・・何となく?(笑
でも、大体、既婚の皆さんに聞くと同じようなこと言うんだよね。
ただ、僕の場合、話が飽きない、この人とだったらいつまでも楽しく話していられるって感じたことは大きいかもしれない。この人とだったら、老後も(笑)楽しく二人で話してすごしていられる、そういうイメージが自然にわいたってのはあると思う。親が喧嘩の多い家だったので、喧嘩しないで穏やかに過ごせそうであることもポイントだったと思う。
ま、よーするに人それぞれだね。みもふたもないけど(笑
ほんと、友人とかみてても、それぞれの組み合わせによって方法論は全然違うしね。
人生に攻略本はないですわ。
むしろ、女性の皆さんがやはり結婚を自分の人生でどう位置づけるべきか、自分はどう望むべきかといった点にかなり思考のリソースを投じられているのは感じるので、僕に聞いちゃうぐらいだから(笑 もっと、適当な人がいるでしょうに。
自然に、縁にまかすべきか、婚活なるものをすべきなのか、確かに迷うよね。自分が同じ立場だったら迷うと思うもんなぁ。
別に謝ることじゃないんだけど、力になれずにすみませぬ。
自分は咳喘息も持っているのだけど(アレルギーだの、なんだのやたら持ってるやつですな、ほんとに)、今週はじめぐらいから、ビッグウェーブがきてるみたいで、ほんとひどい。
咳って体力を消耗するので、えらくだるくなるってのもあるんだけど、それ以上に、オフィスでは周りに迷惑かけちゃうのでつらい。周りは実際にはそんなに気にしていないみたいなんだけど、やっぱり「うるさいんじゃないかな?」とか気になってしまう。ので、なるべく音を立てないように咳をしようとするのだけど、そうすると、肺の中の内圧があがるのか、一咳のダメージがでかくなるという悪循環。やれやれ。
不思議なことに合気道の稽古をすると少し落ち着く。深い静かな呼吸が効果があるんだろうか。よくわからない。
ちなみに、カミサンも咳ぜんそく持ちなので、秋の夜長は夫婦で咳の二重奏なんてことも(笑
なんつーか、色々と心配をかける夫婦であることだわ、われながら。
合気道のKさんがいみじくもおっしゃったことがある。
「怖いこと、嫌なこと、面倒なこと。生きてるとそれは沢山ある。壁が目の前にせまってくる。でも、その時こそ、一歩、いや、半歩でいいから前に出る。そうしないと、壁はもっと高くなる、退路も立たれる。怖くても、前へ出る」
いつでも、なんでもかんでも、前に出てちゃそりゃ疲れちゃうし、リスクも高すぎるのでどうかってのはあるんだけど、譲れないポイントでは、やっぱり前に出るべき。そう僕も思う。合気道で言えば表に入る。僕は性格もあって裏に入る(相手の行動を待って、それにあわせて動くイメージ)方がどうも得意みたいなんだけど、ここぞというポイントでは、特に恐怖とともに壁が迫ってくる状況では、やっぱりそこは男の子。前に出るべき。(いや、女の子でもね)
前に出れば、相手の攻撃は有効なヒットポイントをずれて、攻撃力が必ず下がる。これは、経験上言い切れる。
だから、実は予想に反して、引くよりも前に出た方が安全ってことはよくある。
打ちおろす太刀の下こそ地獄なれ踏み込んで見よ極楽もあり (『剣道みちしるべ』 範士 佐々木季邦 著 より)
ってこと。まぁ、実際はやっぱり怖いので色々と大変だけどもね(笑
生きるということは自己表現の連続なのかなと思うことがある。
ある人は文章で、ある人は絵で、ある人は会話で、ある人は動作・たたずまいで、ある人は仕事で、ある人は人間関係・コミュニティで、ある人はプログラミングで。
何のご縁なのか、合気道は僕にとって表現方法の一つになった。
そして、もう一つ幼いころから頭に描き続けて歳を経て出会ったプログラミング、これを大事にしたいなと思う。
どうも、自分が尊敬する人々(アンドリュー・ハント、デビッド・トーマス、ジョエル・スポルスキ、カル・ヘンダーソン、ポール・グラハム、マーチン・ファウラー、トム・デマルコ、ティモシー・リスター、エド・ヨードン、ラリー・ウォール、etc)はみんなプログラミングを重視している。少なくとも自分の手を動かすことのインパクトを過小評価していない。みな書き続けている。マネジメントの大切さを訴え、そのノウハウを書いていても、同時にプログラミングに時間を投入することを忘れていない。プログラムを読み、書く力はたぶんソフトウェア開発の基礎体力、土台にあるものだし、それ自体広大な問題空間を持つものだと思う。プログラミングをしていく中で、設計スキルが洗練され、要件定義スキルが洗練され、プロジェクトマネジメントスキルが洗練されていくことは「ありえる」と僕は思っている。そうじゃないと彼らの経歴と現在の素晴らしい活躍を説明できない。逆を考えてみる。プログラミングができなければ、良いソフトウェアは作れない。うん、やっぱり自明だ。
ソフトウェアを最終的に形にするのはプログラミングで、最終アウトプットはプログラム。これは自明なわけだから、プログラミングを重視することはイコールアウトプット重視ということで、価値あるソフトウェアを作るという観点から最短距離を走ることになる。もちろん、設計がいらないわけじゃない、要件定義がいらないわけじゃない、マネジメントがいらないわけじゃない、企画がいらないわけじゃない。でも、それは考え方としてはプログラマが設計をやり、要件定義をやり、マネジメントをやり、企画をやるという考え方にするべきだと思っている。プログラマがプログラミング意外も価値あるソフトウェアを作るために必要なあれこれがあるから、それをやる。それが正しいんじゃないかと感じてしょうがない。
だから自分は自分のことをプログラマと称したいし、そのために、毎日必ずプログラミングに時間をとる。
道場の運営や、技の解析も確かに大事だけど、だからといって実際に稽古することをしない合気道家、武道家はいない。これは至極当たり前のことだ。そうなってしまったら終わりだ。こんな当たり前のことが、ソフトウェア開発の現場では見落とされている。