Blog Action Day - 持続可能な範囲でちょっとだけコメント
今日は(といっても残り1時間きりましたが^^;)世界中のブロガーが一つのテーマに関してブログを書くBlog Action Dayです。テーマは「環境」ということで、世界中でエコに関するエントリーがアップされます。
エコ(環境)に関して僕が最近思うというか感じることは大きく二つで、それは「変わったなぁ」ということと、「ちょっと心配だなぁ」ということです。「変わったなぁ」というのは世の中のエコに対する興味というか、取り扱い方、その重きを置く雰囲気、ですね。
10年ほど前はほとんど環境ってビジネス、広告、マーケティングの場面でウリになることって殆どなかったように記憶してますし、書店での書籍のスペースも少なく、周りで環境保全で盛り上げるというようなことって殆どなかったです。TVはバブル崩壊で何はともあれ経済、景気が最優先でしたし、ITやノストラダムスの大予言(古いなぁ)の方がまだマスコミでも多く語られていたぐらいの印象があります。それがここ数年でエコ、環境、地球温暖化といった言葉を聞かずに一日過ごす方が難しくなりました。CMも、ニュースの特集も、小売店のキャンペーンも、JRも、不動産もエコ、エコ、エコです。この変わりっぷりが全世界的なものなのか、日本特有のものなのかわからないですがここ十年の変化は凄い。いまや「環境?エコ?そんなもんで食えんのか?」なんて言う人は殆どいなくなりました。
「……むかしも今も、 また未来においても変わらないことがある。 そこに空気と水、 それに土などという自然があって、 人間や他の動植物、 さらには微生物にいたるまでが、 それに依存しつつ生きているということである。
自然こそ不変の価値なのである。 なぜならば、 人間は空気を吸うことなく生きることができないし、 水分をとることがなければ、 かわいて死んでしまう。 さて、 自然という 「不変のもの」 を基準に置いて、 人間のことを考えてみたい。
人間は、 ―― くり返すようだが ―― 自然によって生かされてきた。 古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。 このことは、
少しも誤っていないのである。 歴史の中の人々は、 自然をおそれ、 その力をあがめ、 自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。
その態度は、 近代や現代に入って少しゆらいだ。 ―― 人間こそ、 いちばん偉い存在だ。 という、 思いあがった考えが頭をもたげた。 二十世紀という現代は、 ある意味では、 自然へのおそれがうすくなった時代といっていい。
同時に、 人間は決しておろかではない。 思いあがるということとはおよそ逆のことも、 あわせ考えた。 つまり、 私ども人間とは自然の一部にすぎない、 というすなおな考えである。
このことは、 古代の賢者も考えたし、 また十九世紀の医学もそのように考えた。 ある意味で平凡な事実にすぎないことを、 二十世紀の科学は、 科学の事実として、 人々の前にくりひろげてみせた。
二十世紀末の人間たちは、 このことを知ることによって、 古代や中世に神をおそれたように、 再び自然をおそれるようになった。
おそらく、 自然に対しいばりかえっていた時代は、 二十一世紀に近づくにつれて、 終わっていくにちがいない。 …」
以上は、 「二十一世紀に生きる君たちへ」 と題して、 小学校6年生の教科書 『小学国語』 (大阪書籍、 1989)
歴史小説家の司馬遼太郎の言葉ですが、彼は正しくこの状況を望見していたんだなぁと思います。環境やエコに対する興味がこの調子で高まっていき、具体的な活動の力になっていけばよいと思います。
しかし、同時に不安に思うのは「あまりに変わるのが早すぎなのでは?」ということです。環境保全、持続可能性、エコ、とても良いことだと思いますし、そういう方向にシフトして行くことは必要なことだと思います。そして、地球温暖化を考えればそれほど悠長なことを言っていられないこともわかります。でも、急激な変化はやはり大きな副作用があるんじゃないかとも思います。例えエコでなくても、持続可能な産業でなくても、それで世の中に価値を生み出し、これまで生活を支えてきた産業、モノ、仕事、人達がいたし、いるわけで、急激な変化はこの人達に「もう用無しだから。というより邪魔だし、もはや悪だから消えろ」というようなメッセージを突きつけてしまうのではないかと不安になります。具体的には、割り箸を作って生計を立てていた人たちはどうなっているのか。レジ袋を作っていた人たちはどうなっているのか。セル生産方式でベルトコンベアーがなくなり、工場は必要な量の製品だけ生産してエネルギー、コストの削減に成功していますが、ベルトコンベアー式の枠組みの中で生計を立てていた中小の下請けの工場の人たちはどうなっているのか。etc…
僕はエコそのものに価値を認めると同時に、持続可能なエコを意識した世の中の仕組みへの変わり方にも持続可能性を考慮する必要があるのではないかなとも思うのです。強い薬と一緒で急激な変化は必ず強い副作用を生み出します。日本は石炭から化石燃料へのシフト、農業から高度成長期への工業、製造業へのシフト、工業、製造業から金融、ITへのシフトで同じように急激な変化を行い、それまで誉めそやし讃えてきた産業を切り捨てることをやっています。そのことの一つのわかりやすい例が炭鉱の町であった夕張市でしょう(財政破綻はその後の自治体運営にも多く責任のあるところですが)。国策が行き当たりばったりとでも言えばよいのか、あるステータスから別のステータスへの遷移が急過ぎて、ソフトランディング(軟着陸)させることが殆ど配慮されないことはとても問題だと僕は思うのです。なぜなら、「もうお前邪魔だからいらない」と言われたモノ達は必ず自分達に代わってやってくるものに対して毒を吐かずにいないと思うからです。結果、それらが新しくやってくるもの(例えばエコ)の足をコトあるごとに引っ張る事態になってしまうのだと思います。多少遠回りに思っても、これまでの価値観の元で活躍した存在には邪魔者扱いするのではなく、丁寧にソフトランディングを促しつつ、一線から退いて頂くという手続きを踏むことが大事なんじゃないかなぁと、そう思うのです。
エコが禁煙活動のようにイデオロギッシュで排他的な活動にならないように、僕自身気をつけていきたいと思います。