言葉とわかる
それにしても言葉とは不思議だなと思う(挨拶←@ふくしげ君)。
ある言葉の意味を辞書で調べる、ネットで調べる、人に聞く、本を読む・・・答えは全部【言葉】で返ってくる。
そして、その言葉の意味を調べると・・・また答えは言葉で返ってくる。以下、無限ループ。
言葉の意味は言葉の外にあるのか?言葉の内にしかないのか?
何かの言葉の意味、実体を説明、表現しようとするとそれは必ず言葉になってしまう。
言葉が意味する【何か】を僕達は決して特定することができない。意味がどこまでいっても見つからない。
でも、意味が、実体が見つからない言葉を使って僕達はまた【わかる】ということができる。
いったいこれは【何】がわかっているんだろう?
辞書をどこまで遡っても意味なんてどこにも書いていないのに、どうして僕達は言葉を聞いて意味が【わかる】んだろう。
意味っていったいなんだ?コミュニケーションの場で僕達がわかっていることとはいったいなんだ?
何か意味や実体が外部にあり、それが言葉という記号で表現されている。普通、僕達はそう考えて生きているけれど、実際は逆転した構造になっているようだ。つまり、ソシュールが言うように言葉が世界を作っている。言葉が世界を分節し、僕達の認識を形作っている。言葉にできない事象を僕達は認識できない。僕達は言語の檻に閉じ込められている。僕達の認識、思考、世界観は僕達が運用する言葉に縛られている。
プログラムを見ていると、こんなことをよく考える。言葉の意味はどこにもない、少なくとも特定することは僕達にはできない。なのに、その言葉を使って僕達は世界を記述し、社会を動かし、コミュニケーションを行い、プログラムを書いて動かす。不思議だ。不思議すぎる。どうしてそんなことができるんだろう?言葉のどこにも意味はない。だから、言葉はフィクション、幻想なのに、どうしてその言葉が現実に世界を動かせるんだろう?いや、現実ってそもそもなんだ?よく、わからない。
僕達はまた時間という概念ももっている。過去、現在、未来。当たり前のように使っている言葉だけれど、いったい過去も現在も未来もどこにあるんだろう?時の始まりのその前は?時の終わりのその後は?時、時間という概念を考えると始まりと終わりを考えざるを得ないけれど、まさにこの時間という概念が同時に時間そのものの始まりと終わりを思考することを不能にしている。だから時間もまた客観的な概念ではなく、非常に恣意的な概念なんだろうなと感じる。時間という概念は時間そのものの始まりと終わりをいったん括弧に入れなくては上手く使えない。時間はそういう非常に人工的な概念になる。当たり前だけど。すると、時間も実体は外部にあるのではなく、幻想の水準にあることになる。しかし、同時に僕達は日常、その時間によって行動を計画し、人と連携し、待ち合わせ、生まれて、死んで、世の中を動かしている。幻想であるはずの時間が実際に世界に影響を与えている・・・・なんだろうこれは?
こうして考えれば考えるほど言葉って不思議になってくる。
言葉を思考、世界、宇宙、生命、時間なんかに変えてもいい。結局全て言葉で認識し、思考しているから。
その意味を特定することができない言葉を駆使して僕達は何かを表現し、理解する。
いったい何がわかって表現や理解をしているのか、さっぱりわからない。
けれど、【わかっていない】ことは【わかる】から【わかっていない】と言えてもいるわけで・・・。
こうなってくると言葉というものに畏敬の念をいだかずにはいられなくなる。
言葉はたぶん、僕達のものじゃない。自由に使っている気がするのは錯覚だ。
僕達は自分達が思っている以上に不確かでエキサイティングな世界に生きている。
Comments
長くなりそうなので、手短に(挨拶
言語化するってのは、意識の客観化じゃないのかな、と思う。独りっきりで無人島で暮らしていると誰かに伝える必要性がないから言葉を発しなくなるのでは?と思うけど。その意味では、外部からの情報は言葉に頼る他なく、外部に発信するときも言葉に頼るほかないのではないかなぁ。
ニュータイプは言語が必要ないのでは、と思う今日この頃。
ニュータイプじゃないから、念じてもね、とどかないしね(笑
自分自身も他者ととらえると、自分自身に語りかけるとき(それはつまり思考するときや、一人言をしゃべるとき、あーだこーだ頭のなかで考えてるときに相当する)、僕らはそういう場合でも日本語、または知っている言語で考えるよね。そういう意味で、僕達は、たとえ無人島で一人で暮らしていても言語に縛られているんだと思うよ。自分と対話するために必ず言葉を使わずには思考できないから。
ただ、考えるのではなく感じるというレベルがあるよね。この感じる経験、言語かしづらい何かというのは使用している言語に無関係に経験しえて、共感しえるのかなぁというのがとても気になるところ。
内田 樹の『寝ながら学べる構造主義』のR.レイの引用によると
「現に、苦痛が耐えきれなくなる閾値には個人差があるだけでなく、その個人がどのような文化的バックグラウンドを有しているかによっても異なることが知られている」(R・レイ『痛みの歴史』)
とのことなので、これが正であるならば感じるレベル、経験のレベルでも人間は使用している言語に強く影響を受けてしまうのかなぁと思ったり。いや、そんなことない世界もあるんじゃねぇのと思ったり(笑
あとは、無人島でいきなり生まれて、親はすぐに死んで、言葉を学ぶ機会がないままに運良く(?)成長したケースではどうなるのか?も興味深い。オオカミに育てられた少女の話、もううろ覚えだけど調べて読み直してみようかな。確か、人間社会につれてきてからあまり長く生きられなかったんだよね。