刑罰と犯罪被害
もう何ヶ月も前になると思いますが、BIG ISSUEに犯罪被害者の会「あすの会」を取り扱った記事をみかけて、ご家族やご自身の健康、生活を奪われ、損なわれ、破壊された方。しかも理不尽な犯罪によって突然にそのような状況に追い込まれてしまった方達がおかれた状況を知り、とても強い憤りと不安を感じました。
法も、世間も、被害者であるはずの彼らに支援するどころか、追い詰めるばかり。一家の大黒柱がなくなれば、精神的ショックもさることながら、現実的な課題として生活面の不安が重くのしかかるのに、これを効果的に保護する仕組みがない。犯罪被害者は読んで字のごとく被害者であるはずなのに、犯罪に巻き込まれただけで会社や町村といったコミュニティから疎外される。特に被害が後遺症を残すような場合、そのような方の就職や社会復帰は困難を極める。ひどくなると、何も知りはしないのに「(犯罪に巻き込まれるということは)被害者にも何か悪い所があったのだろう」と心ない言葉をぶつけ、憶測であれこれいい加減なことを言い立てる。犯罪被害者からはプライバシーも剥奪される。
僕は死刑廃絶を支持する人間です。それは、人間は間違うし、人間は神の視座を得られぬ以上真実は決して知ることができないがため、司法といえども判断を誤る、つまりは冤罪が必ず起こりえると考えるからです。無罪の者を殺してしまう可能性がある以上、死刑を肯定したくない。それが僕の意見です。だって、無罪で殺されたくないですしね。しかし、このように犯罪被害者が十分な支援を得られずに心身共に孤立していくような状態では、犯罪被害者の立場としてはそれは犯人が極刑になってくれでもしない限り決して溜飲は下がりませんよね。
死刑の廃絶が困難を極めることと、犯罪被害者の支援が脆弱であることはおそらく根っこでつながっていると思います。死刑を執行することでしか、犯罪被害者を慰める方法がない。そのことに何の疑問も感じない僕らの社会の冷たさが問題の根っこになると思います。(まだ犯罪被害者ではない)僕達は犯罪とは他人事だと思っています。犯罪には加害者と被害者があるとはいえ、その原因と結果は当事者の中で閉じていると考えています。犯罪の発生は僕達には責任がないと思っているのです。でも、それは違うんじゃないかと僕は思います。人間の身体が、負荷が集中した時にその一番弱い場所から壊れてしまうように、
僕達が形作っている世界、社会の負荷が、ゆがみが集中したところに犯罪が生まれているという見かたもできるのではないでしょうか。もちろん、その犯人が単に異常だったんだ、または被害者に原因があったんだと言ってしまうことは簡単です。現にそういう場合もあるかもしれません。でも、そう言ってしまって、犯罪を対岸の火事のように扱ってしまったら、僕達は決して犯罪に占める自分達の責任に気づくことはないでしょう。そういうことでいいのでしょうか。
犯罪が起こるたびにその当事者を切り捨て、僕達とは違う世界の出来事として視界から追いやり、清浄なる僕達の世界の平和を取り戻す。これでは、子供向けの魔王退治の話とレベルが変わりません。まず、自分に何かできることはないのか?自分に何か誤っているところはないのか?責任はないのか?犯罪に限らず、まず自分の愚かさやいたらなさの検出を優先しようとすることが「大人」なのではないでしょうか。自分達の世界の酷さを誰か(「大人」や「社会」や「イデオロギー」やとにかく自分以外の誰か)のせいにするのではなく、まず自分はどうなんだ?と問う習慣を持たない人は、たとえどんなに年齢を重ね、権力を持ち、成功を手にし、言っていることが正しく思えても、僕は「子供」だと思います。自分の正しさを無邪気に主張し、悪はひたすら外部にあるものとして糾弾することは「子供」にのみ許されることです。大人は悪を自分のこととして受け止めなくてはいけないと僕は思います。
ですから、僕は犯罪にも僕達「大人」の責任があると考えています。であれば、自然と犯罪被害者の支援は僕らが、つまりは国(税金)を使って行ってしかるべき正当性があるし、もちろんボランティアや一生活者として支援を心がけるべきことだという考えに行き着きます。だいたい、加害者には税金を使ってあれこれ支援を行っているのです。被害者だけが自己責任で放ったらかしなんておかしいと思いませんか。
# ほんとは死刑廃絶に絡めて、でも、ほんとにそれっていいのかな?という迷いの話をするつもりだったんですが、なんかテーマがずれてしまいました^^; そっちはまた改めて書きます。